サクリファイス
わずか54歳でこの世を去った鬼才アンドレイ・タルコフスキー監督の遺作。スウェーデンの島を舞台に、大学教授・アレクサンデルの1日を描く。自分の誕生日に松の木を植えた彼は、のどの手術で言葉が話せなくなった息子に、奇跡の伝説を語り聞かせる。やがて平和だった島を襲う、突然のごう音。TVニュースが伝える核戦争勃発。アレクサンデルは平和のために自らの命を神に捧げようと誓う。
他の作品同様、タルコフスキーが静かな語り口によって、生と死の問題に深く切り込んでいく。アレクサンデルと木のカットなど、一枚の絵のような美しさを放つ映像の数々に、バッハの「マタイ受難曲」や日本の尺八など音楽も心を揺さぶる効果を発揮している。神への献身と犠牲(サクリファイス)、そして核の恐怖。そんなテーマに、自らの死を意識し、重ね合わせたような本作によって、タルコフスキーは魂の叫びを鮮明に浮かび上がらせていく。(斉藤博昭)
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タルコフスキーの白鳥の歌 |
私はあまり映画というものを、ストーリーで理解しない(できない)たちです。「核戦争の恐怖」は確かに1つのテーマでしょうが、「犠牲」というタイトルが意味するものは、もっと深いもの、生存の根本にかかわるものを暗示しているように思います。
個人的に、マリアと呼ばれているアイスランド人の女性が好きです。この女性は魔女であるとも言われ、他の人々と距離をおいている。寡黙で地味な存在ですが、神秘的な雰囲気を持っており、一人で離れた小屋に住んでいる。疲れた主人公は、結局自分の家政婦であるこの女性のところに行って癒される。
こういうキャラクターを見ると、もちろんタルコフスキーの技量でもあるでしょうが、ヨーロッパという世界の文化の深さを、蓄積を感じさせます。「個」であること、他と同化せずに、覚めて自分自身であること、、、
最後に主人公が家に放火した後、救急車で運ばれますが、それをひとり自転車で追いかけるのも彼女です。その姿には、感情よりも、ひとつの意志が現れているようで、美しいと感じます。
最初劇場で見、その後ビデオやBSで何度見たかわかりませんが、最後の「希望をもて」というテロップを見るといつも涙が溢れてきます。
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これは遺作ではない |
実は『サクリファイス』(1986)の草案は前作『ノスタルジア』(1983)の前、タルコフスキーがまだソ連にいた時期に書かれています。それは「犠牲」と「魔女」という二つのものでしたが、実際のシナリオにはその二つの原案に「白痴」(ドストエフスキー原作の小説で長年タルコフスキーが映画化したかった)が加味されているように思われます。そのためか、正直『サクリファイス』にはある種の散漫さが窺われます。核戦争に魔女がでてきてムイシュキンが日本の木を植えていたりするわけですから。
しかし、そのような普通ならバラバラになるテーマを、タルコフスキーは映画としては見事なまでに統一させました。映画の中の出来事は全て一つの場所で起こり、それはたった一日のことなのです。見る???によって様々な解釈があると思いますが、核戦争勃発も主人公の幻想かもしれませんし、魔女との関係も夢の中のことかもしれません。時間の流れ方は奇妙に歪み、どこに現実があるのかを見定めることは困難です。それがまた異常なまでに美しい北欧の景色のもとで展開されるので、人は眩暈にも似た不可解な観念の渦に巻き込まれていきます。
ただ『サクリファイス』には『ノスタルジア』や『鏡』のような「詩」が存在しません。タルコフスキーは「詩」すらも犠牲として「神」に捧げてしまったかのようです。もちろん『サクリファイス』の信仰表現は単純なものではありませんが(キリスト教でもかなり異端的でしょう)、次回作に「聖アントニウスの誘惑」を挙げていることからも、タルコフスキーはどうも芸術創造!という行為自体に疑念を抱き始めていたようです。
晩年のインタビューでは、『ノスタルジア』と『サクリファイス』のどちらがより気に入っていますかと質問されて、タルコフスキーはこう答えています。
「現代人への洞察という点では『サクリファイス』は今までの私の作品の中で最高だと思いますが、詩作品、純粋なポエジーとしては『ノスタルジア』の方が『サクリファイス』より優れていると思います」。
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20世紀宗教画の最高傑作 |
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枯れ木から「生命の木」へ・・・タルコフスキーの遺言。 |
『僕の村は戦場だった』の最後に、一瞬だけ登場する象徴的な枯れ木のイメージが、『サクリファイス』での「生命の木」へと繋がっていく説は有名だが、果たしてタルコフスキー自身がそのことを意識してこの脚本を書いたのか、非常に知りたい。
癌で亡くなったタルコフスキーがこの作品の前に作ったのが『ノスタルジア』。イタリアを訪れているロシア人にまつわる話でした。そういえば、あの映画の主人公は病に苦しんでおり、あのラストへと到達する訳ですが、果たして『ノスタルジア』を作っていた当時からタルコフスキーは死を予感していたのでしょうか。あるいは、イタリアに亡命していた時点で自らの精神の敗北を感じていたタルコフスキーにとって、「死」と言うべきものは身近な、あるいは既に経験し???ものだったのか。
その意味で、この映画はタルコフスキー映画の中で最も希望を感じさせる映画だと思います。汎神論的世界観の中で、現実に絶望しながら、そしてそれに上手く対応できない自分を憂いながら、自らの思い、希望を幼い息子に伝えようとする一人の老人。
それはそのまま、自分の息子に「アンドレイ」と自分と同じ名前を名付けた、タルコフスキー自身の姿と言って差し支えないと思います。
あるいは、アレクサンドルが映画の序盤で、口の利けない息子に教える、枯れ木に水をやり続けた一人の僧のエピソード。あり得ないことを、それでも信じることの意義そのものを、この映画は問うているのかもしれません。
劇中使われるバッハ・マタイ受難曲中のタイトル、「神よ、私のこの涙にかけて憐れみく!ださい、みてください」は、そのまま、この作品を理解する鍵ともなるでしょう。
相変わらず美しいラスト。タルコフスキー専売特許(笑)の「水と光と木」が同じ画面に同居しながら、タルコフスキー自身による言葉が重なります。
「希望と確信を以て-----------アンドレイ・タルコフスキー」
歴史に翻弄されながらも、その命を映画に刻み続けて生きた、一人の芸術家による見事な終章です。
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タルコフスキー作品の頂点!必見です!! |
タルコフスキーの集大成となる作品です。この撮影の頃はすでに病魔(ガン)に侵されており、スタッフも監督の体調を気遣いながら撮影を進めていきました。私は本作のメイキング映画を観た事がありますが、そのこだわり様には大変驚きました。ほとんど映ることのない小物にすらこだわりをみせて、挙句には単なる絵画の素材撮影にすら自ら立会い、何度も撮影しなおしをしています。有名な家の燃えるシーンではカメラが回っていないというハプニングがあり、タルコフスキーは失意のどん底に落ちますが、スタッフはなんと数日で家を復元させました。スタッフも凄いです。
『犠牲』と言うタイトルどうり、主人公が自ら犠牲の行為を取ることによって世界を救おうとする訳ですが、まさにタルコフスキーの祈りに満ちた作品に仕上がっています。極限の映像美とともにこの大傑作を堪能して下さい。

