歴史上のクラシック音楽作曲家について紹介・評論します。
モーツアルトの生涯

  • 1756年 - (0歳) ザルツブルクに生まれる。
  • 1759年 - (3歳) クラヴィーア(ピアノの前身)を弾き始める。
  • 1761年 - (5歳) 最初の作曲を行う(『アンダンテ ハ長調 K.1a』)。
  • 1762年 - (6歳)
  • 1763年1766年 - (7〜10歳) パリ・ロンドン旅行。
  • 1767年1769年 - (11〜13歳) 第2回ウィーン旅行。オペラ『ラ・フィンタ・センプリーチェ』上演。
  • 1769年1771年 - (13〜15歳) 第1回イタリア旅行。父と共にミラノ、ボローニャを経てローマへ。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていた、ドメニコ・アレグリ(Domenico Allegri, 1587年?-1629年)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したという逸話が残されている。
  • 1771年 - (15歳) 第2回イタリア旅行。セレナード『アルバのアスカニオ』ミラノで上演。
  • 1772年1773年 - (16〜17歳) 第3回イタリア旅行。ミラノでオペラ『ルチオ・シルラ』上演。
  • 1773年 - (17歳) 第3回ヴィーン旅行。
  • 1774年1775年 - (18〜19歳) 第2回ヴィーン旅行。オペラ『偽りの女庭師』上演。
  • 1777年 - (21歳) ザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、マンハイムへ就職旅行したが成果無し。マンハイムでは、マンハイム楽派の影響を受ける。
  • 1778年 - (22歳) マンハイム→パリ旅行。アロイジア・ヴェーバーに恋愛。パリでの就職も不首尾に終わる。
    • 7月3日、同行した母パリで死す。帰路ミュンヘンでアロイジアに失恋。
  • 1779年 - (23歳) ザルツブルクに帰郷。ザルツブルク宮廷にオルガニストとして復帰。
  • 1780年 - (24歳) ミュンヘンに旅行し、オペラ『イドメネオ』上演。女帝マリア・テレジア崩御。
  • 1781年 - (25歳) 6月、ザルツブルク大司教ヒエロニムス・コロレドとの衝突、解雇。そのままヴィーンに定住を決意。
  • 1782年 - (26歳) オペラ『後宮からの誘拐』をヴィーンで初演(7月)。
  • 1783年 - (27歳) ザルツブルクに帰郷。『ミサ ハ短調 K.427(417a)』を上演。
    • 6月長男誕生するもザルツブルク旅行中に死亡。
  • 1784年 - (28歳) 第2子カール・トーマス(1784年-1851年)誕生。
  • 1785年 - (29歳) 父レオポルトがヴィーン訪問。息子の演奏会が盛況なことを喜ぶ。
    • 音楽の父、ハイドンと会い、ヴォルフガングの才能について賛辞を受ける。
    • ヴォルフガング、弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈(「ハイドン・セット」)。
  • 1786年 - (30歳) オペラ『フィガロの結婚 K.492』をブルク劇場で初演。
  • 1787年 - (31歳) 「フィガロの結婚」がプラハで大ヒットしたため同地訪問。
    • 4月 - ベートーヴェンがモーツァルトを訪れる。
    • 5月 - 父レオポルト死去。
    • 10月 - 新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ K.527』を作曲、初演。
    • このころから借金依頼が頻繁に行われる。
  • 1788年 - (32歳) “3大交響曲”(交響曲第39番〜第41番)を作曲。
  • 1789年 - (33歳) ベルリン旅行。
  • 1790年 - (34歳) オペラ『コジ・ファン・トゥッテ K.588』初演(1月)。
    • 2月、皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルト2世即位。フランクフルトで行われた戴冠式に同行。同地で私費を投じてコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番ニ長調「戴冠式」同19番ヘ長調「第二戴冠式」などを演奏するも、観客は不入りだった。
  • 1791年 - (35歳) 7月 第6子フランツ・クサーヴァー(1791年-1844年)誕生。
    • 最後のピアノ協奏曲第27番変ロ長調作曲(1月)
    • プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式に同行、オペラ『皇帝ティートの慈悲 K.621』初演。
    • 9月、シカネーダー1751年-1812年)の一座のためにジングシュピール『魔笛K.620』を作曲、初演。
    • 健康を崩し、11月から悪化。7月にフランツ・ヴァルゼック伯爵から匿名で依頼を受けた『レクイエム K.626』の作曲を終えることなく、12月5日午前1時ころ35年の生涯を終えた。死因については毒殺説、謀殺説などが語られているものの確証はなく、あるモーツァルト研究家によるとその症状から見て「リューマチ性炎症熱」だったのではないかと推定されている。
    • 最低料金(あくまで庶民扱いであった)の葬儀後、郊外のセント・マルクス墓地に埋葬された(とされる)が、誰も同行しなかったため、どこに埋葬されたのか不明である。

  • 「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2006年3月6日 (月) 05:07 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org
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